サッカーの中田英寿、大リーグのイチロー、松井秀喜など、日本人もやっとかつての企業戦士ではなく、個人が世界に通用する時代になってきた。
不特定多数の中に紛れ込んで、社会常識とか世間とか一般的などという言葉で自分を支えてもらうのではなく、自ら矢面に立ち、人生を切り開いていこうという新しい感覚の日本人たちは頼もしい限りだ。

しかし、そんな時代の波の後押しもない頃、現代の我々以上に世界に向かって自分の道を切り拓いた開拓者たちがいた。



1924年7月、映画の都ハリウッドのグローマン・エジプシャン劇場では、ダグラス・フェアバンクス主演の冒険活劇映画『バグダットの盗賊』が盛大に封切られた。
この映画の中で、サイレント時代の人気スター、ダグラス・フェアバンクスの向こうを張っているのは、ソージン・カミヤマこと日本人俳優、上山草人だった。草人が演じたのは、ダグラス扮する盗賊の恋敵でもある悪役のモンゴルの王子である。剃り上げた頭に被ったパゴタのような帽子、肩まで垂れ下がる耳飾りや首飾り、きらびやかな衣装。その派手な扮装に引けをとらない、窪んだ大きな目と薄い唇の特異な容貌。そして歌舞伎の睨みをきかせた演技。ソージンのデビューは鮮烈だった。
評判は上々で、ニューヨーク・タイムズは「完全なる敵役」と絶賛した。
それからソージンはハリウッドの人気スターとして、1929年日本へ帰国するまでの5年間に、47本ものハリウッド映画に出演した。


上山草人『バグダッドの盗賊』のモンゴルの王子

渡辺謙がハリウッド映画に登場して大きな話題になった昨今だが、1910年代後半から20年代にかけてのハリウッド草創期は、実は日本人俳優の黄金時代でもあった。
1911年、サンタモニカの北に、監督兼プロデューサーのトーマス・Hインスが広大な撮影所、インスビルを作った。ここに風車のあるオランダ村や、西部劇用のスー族のキャンプと並んで、人力車が走る日本村のオープンセットが組まれた。当時は映画そのものがまだ珍しい時代だったから、世界各国の珍しい風俗・習慣を見せることで人々の興味を引いたのだ。


1920年代のハリウッド 有名な丘の上のサインは不動産会社の広告だった

インスはここでオリエンタル趣味の映画を製作するため日本人俳優を募集し、青木鶴子、トーマス栗原、早川雪洲、ヘンリー小谷、伊藤潮花、木野五郎などが集まった。
映画の都ハリウッドが誕生したばかりの1912年、マジェスティック社の喜劇『お鶴さんの誓い』に主演した青木鶴子が日本人ハリウッドスター第1号である。そして当時、喜劇王チャールズ・チャップリンと並ぶほどの人気を獲得したのが、鶴子の夫だった早川雪洲だった。

早川雪洲は戦後の1957年のコロンビア映画、「戦場に架ける橋」の日本人将校の役で、渡辺謙と同じようにアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたことで記憶されている人もあるかと思うが、スターとしてはサイレント時代の方が強烈なものがあった。
彼は二枚目の悪役や敵役を演じセンセーションを巻き起こし、エキゾチックでセクシーな俳優として白人女性から大いにもてはやされ人気スターになったしかし、1920年代になると全米で排日感情が高まりはじめ、作品の配給を巡るトラブルに見舞われた雪洲は、1922年にハリウッドを去りヨーロッパに活動の舞台を移していった。

雪洲と入れ替わるようにハリウッドスターとなったのが、上山草人だった。しかし、草人が1919(大正13)年、アメリカに渡ったのは、決してハリウッドの大スターを夢見てのことではなかった。

上山草人、本名三田貞は、仙台の産婦人科病院の二男として1884(明治17)年に生まれた。
早稲田大学の文科に入学するも、中退して新派の俳優になる。女優の山川浦路と結婚し、1912(大正元年)年には、島村抱月、松井須磨子に対抗して近代劇協会を設立、新劇運動を始めた。
ところが、草人が企画した野心作は失敗続きで、借金とスキャンダルに追われるようにアメリカへ渡ることになる。
草人一家はアメリカ各地を転々とし、やがてハリウッドでエキストラになった。

1924年、ダグラス・フェアバンクス・スタジオで『バグダットの盗賊』のテスト撮影が始まっていた。草人は最初脇役でこの映画に参加していた。撮影が終わって監督助手が、「明日の朝は早い。遅れるなよ」と皆に声をかけた。すると草人は「ノー!」と大声を上げた
「自分の家は遠いから、とてもそんな時間は無理だエキストラと大差ない彼の言葉に、周りから一斉に笑いが起こった。
衣装を着替えていると、マネージャーが小切手を持ってきて、「今日のギャラだ」と言った。
「おれは日雇いで仕事をしたことはないんだ。ダグラスにそう伝えてくれ」と、草人はまたこともなげに言った。
草人のそのプライドと自己主張の強さが日本ではトラブルのもとだった。しかし物事をはっきり言う性格は、アメリカでは却って通用した。次の日から待遇ががらりと変わった。自動車の送り迎えがつき、ギャラもあがったという。

草人の自伝『素顔のハリウッド』(1930年、実業之日本社)によると、最初モンゴルの王子の役は他の俳優に決まっていた。
その俳優をダグラスはどうも気に入らないようだという噂が耳にはいり、草人は英語の得意だった妻・浦路を、ダグラスのところへ交渉に行かせ、スクリーンテストを受けさせてもらえることになった。
最初ダグラスは、ソージンの目は優しいから敵役には向かないと言っていた。
草人は思い切って頭を剃り上げ眉毛を剃り落とし、奇抜な王子の扮装をつけた。監督助手が、少しでも悪の王子の思い入れがなくなったら、チャンスを失うぞ、と声をかけた。

 「よろしい、心得ました」と私は軍扇を斜めに構えた。
 そして歌舞伎三分、新劇七分に身構え、唇をへの字に結び、眼を半眼に据え、しずしずと  彼の部屋に押し入った。
「あいやダグラス、ひんがしは日出ずる国の一役者、某ただいま悪の王子ジ  ンギスカンに化けて参った。・・・・・・そこらに転がるやつらとは似ても似つ  かぬ位取り、段違いの王者振りをご見参に及ぶ、よっく目玉をおっ開いて  ご覧あれ」
 と憤怒の気を眉宇にあつめて、はったと睨みつけたのである。

ダグラスはこれを見て草人であることに一瞬気づかず、呆気に取られていたが、やがて「ナイスフィーリング」と叫んだ。

草人は英語があまりうまくなかったので、この大時代な台詞を日本語で言ったのだろう。そして、歌舞伎の見得を切るような大仰な演技で周囲を圧倒した。今までアメリカ人が見たことのない演技に、監督も撮影技師もシナリオライターも、その他の幹部一同が撮影を放り出して集まってきて、草人の王子振りに驚嘆した。こうして見事モンゴルの王子の役を得た草人は、その後も数々のハリウッド映画で活躍し、名探偵チャーリー・チャンを当たり役の一つにし、また得意の変装術を駆使して、探偵、老僕、敵役の一人三役などを演じるなど、アメリカの映画ファンを魅了し、堂々たるハリウッド・スターとして人気を博した。

1924年、日本人の移民を禁止する排日移民法が施行され、仮想敵国の日本人に対する風当たりも強くなっていた。特にカリフォルニアは排日運動の中心地でもあったが、そんな中で映画の都ハリウッドは、魅力あるものに対しては例え日本人でも受け入れるという自由さがあった。

しかしそれも、草人のように本人自身の人間的魅力で果敢に挑んでいったからこそである。
自分が会社や組織に受け入れられるかどうかは、要するに自分が他の誰かと変わることの出来ない存在かどうかであることを、上山草人の強烈な生き方は示しているのではないだろうか。

この回おわり
 
 
参考資料:『ハリウッドの日本人「映画」に現れた日米文化摩擦』垣井道弘著(1992年、文藝春秋) 
     『素顔のハリウッド』上山草人著(1930年、実業之日本社)
     Website/City of Culver City]
     
 『Film History by Decade』Written by Tim Dirks

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