◇ あこがれの京都見物
          

東海道五十三次『三條大橋』 安藤広重画 江戸の人々がお伊勢詣りを口実に見物したい憧れの観光地は、なんといっても京都でした。
 十返舎一九は、「京都には素晴らしい寺院、堂塔がたくさんあり、また花の春、紅葉の秋には東西南北に名だたる景勝の地があって、加茂川の名酒とともに人々の魂を魅了する。商人は良い着物を着て他国の人と異なるのは、京の着倒れというように、西陣の織元があるからだ」と書いており、すでに現在の京都のイメージが出来上がっています。
 さて、当の弥次郎兵衛・北八のコンビは、京都で何を見物したのでしょうか。
 東海道五十三次の出発点はお江戸日本橋、終着点は京都三條大橋となっています。桑名、四日市を通って鈴鹿越えをして、大津から京都の三條大橋に入るというのがコースですが、弥次さん北さんはこのコースをとりませんでした。一応お伊勢詣りが名目でしたから、桑名からは伊勢路を通って、殊勝にも伊勢神宮に参詣して奈良、伏見から京都に入ったので、最初に着いたのは五条大橋でした。一般的にもこのコースを取る旅人の方が多かったようです。

 

 二人は加茂川沿いの宮川町で美しい芸子に見とれ、早速笑われます。宮川町は上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町と並び、五花街として当時から現在まで続く華やかな京都の代表です。
 弥次・北コンビは五條から四條通りに出て、芝居小屋のやぐら太鼓の音と木戸番の呼び込みの声に誘われるまま、神社仏閣への参詣は後回しにして、まず芝居見物と相成ります。
 四條河原は阿国歌舞伎発祥の地として知られていますが、現在は四條の南座の横手に記念碑が建てられています。江戸っ子の芝居好きは有名ですが、現在でも南座の十二月の歌舞伎顔見世興行は京都の師走の風物詩としてなくてはならない一大イベントであり、東京からもたくさんの見物客が訪れます。



    
◇ 江戸時代の人々の素朴な信仰心

 それから二人はやっと祇園の社に詣でて、その由来などを知ります。この祇園の社は現在の八坂神社のことですが、『東海道中膝栗毛』の中では、吉備真備が唐から帰朝した折、播磨の広峰神社に祀った牛頭天王(ごずてんのう)を移したもので、牛頭天王の他に、天王の八人の王子と櫛稲田姫を祀ってあると解説しています。
 牛頭天王は疫病を退治する強い霊力をもつとされ、医療の発達していなかった時代の民間信仰として神社に祀られるようになったのですが、明治政府の神仏分離の方針から、お釈迦様のいた祇園を守護したといわれる牛頭天王を象徴する祇園社と称することができなくなり、八坂神社と改称されました。
 確かに神社のご本尊が仏様というのも変な話なのですが、神仏習合の民間信仰の中では、牛頭天王の本地仏は地蔵菩薩であり、新羅に牛頭山という山があり熱病に効果のある栴檀(せんだん)が採れたところからこの山の神と同一視され、薬草から本地仏を薬師如来とする素戔嗚尊との関係が連想され、また『日本書紀』には素戔嗚尊が新羅のソシモリという地に居たことがあると記されており、ソシモリは韓国語で牛頭または牛首を意味するなどの関連性から、だんだん牛頭天王は素戔嗚尊と同体視されていったのです。八坂神社 祇園祭りの花笠巡幸

 
 今でも地元の人々が八坂神社のことを親しみをこめて「祇園さん」と呼ぶのはそんな経緯があったからですが、祇園信仰は、わが国固有の神道とインドに成立した仏教、中国の道教などの習合によって生みだされたもので、日本人独特の大らかな信仰形態といえます。唯一絶対者を対象に自分の生き方をゆだねる宗教心ではなく、自然界の森羅万象にたいしての畏敬の念と、生かされているという感謝の心こそが、日本人の日常的信仰心でした。
 
 現代の日本人の宗教に対する感覚も、意識されてないだけで実は同じなのではないでしょうか。多くの宗教的対立が最大の悲劇を生むことを目の当たりにしている現代、思想としての宗教心ではなく、相手を尊び、受け入れて親しみをもつ日本人の排他的でない信仰心こそ、平和共存への道を切り開くことができる鍵のように思われます。


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