とれぽ旅行案内  

                日本の観光ルーツはお伊勢詣りと京都見物

東海道五十三次『日本橋』 安藤広重画
「可愛い子には旅をさせろ」と昔から言われるように、日本人には、旅は人間を鍛え、立派にするという考え方がありました。西行や芭蕉、種田山頭火のように、旅そのものに人生を重ねた人々もいましたが、もともと日本人は旅が好きな民族と言えます。それはまず第一に、古来より日本には温泉が豊富に湧いたということに関係があります。
 『日本書紀』や『古事記』には、すでに有馬、道後、白浜などの温泉に関する記述があり、道後温泉は聖徳太子も訪れたとあります。また日本の国土は山が多く変化に富み、その風景が四季折々美しく姿を変えることが、何よりも日本人の情緒を刺激し、旅情を味わう感性を育んできたのではないでしょうか。


                       ◇ 信仰心が旅の原点だった

旅をするときの諸注意
 平安時代、温泉や景勝地への旅はまだまだ貴族や身分の上の人たちだけで、一般の人たちが旅をするのは熊野参詣などに限られていました。熊野神社は険しい山の中にありましたが、当時その山道を行く参拝者が引きもきらず、蟻の行列のようだったので、「蟻の熊野」というキャッチコピーがついたくらい熊野詣でが流行ったのも、すでにそこに観光旅行的要素が含まれていたからでしょう。
 しかし、熊野へは山道を歩く修行的要素もあって、やはり信仰心が強くないと無理なところもありました。ところが、平坦な道を行くことができる伊勢神宮が新たな信仰の対象になるようになって、旅の様相も大分変わってきました。
 とくに江戸時代に入って太平の世が続き、東海道五十三次に代表されるように街道が整備されたこともあって、一般庶民も本格的に旅を楽しむようになってきました。
 江戸時代は旅にさまざまな制約があったように思われますが、庶民の信仰心を幕府も無下にするわけにはいかず、お伊勢詣りということであれば比較的簡単に通行手形を出してもらえました。従って、文政13年(1830)の伊勢神宮遷宮の時には、日本全国から486万人が押し寄せたそうで、当時の日本の総人口が3,100万人くらいですから、なんと1年で国民の6人に1人ぐらいが参詣したことになります。
 当時の川柳に「伊勢詣り、大神宮にもちょっと寄り」というのがありました。それだけお伊勢詣りは名目化して、日常から離れて美しい景色を楽しんだり、珍しいものを見たり、名物といわれるものを食べたりという、現代人の観光旅行と変わらなくなっていたことが分かります。


  
             ◇ 庶民の旅は『東海道中膝栗毛』

 江戸庶民の旅の様子は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でよく分かります。
 「ここにおりますのは、お江戸の神田、八丁堀付近に住む、弥次郎兵衛、北八という怠け者でございます」
と、狂言まわしが紹介するように、この二人も伊勢参りの大願を起したわりには、ぶらりしゃらりと、脇目を振ってばかりいる暢気な旅です。しかし、一般の人々の旅もこれと大して違いはありませんでした。
 
江戸時代の日本は、世界で類を見ないほど一般教育が進んでいて、誰でも寺子屋で読み書き算盤を習い、十歳くらいまでには「子曰く」と、論語の素読くらいはできたようです。
 余談ですが、福沢諭吉は家が貧乏だったので、家計を助けるために働くことに忙しくて寺子屋にいく暇がなく、勉強も嫌いだったこともあって、十歳になっても字が読めずに恥ずかしい思いをしたと、自伝に書いています。もちろんそれから猛勉強をして、その後敵塾の優秀な生徒になりました。

 
そのように字の読める人が多かったので、旅人のために宿場間の距離やかかる日数、宿の情報や馬や駕籠の頼み方、名所・旧跡の案内まで書かれた、『旅行用心集』というような旅行ガイドも多く出版されました。
 『東海道中膝栗毛』も、弥次郎兵衛・北八の粗忽旅を、道中の風物を紹介しながら面白おかしく綴ったものですが、それ自身が旅の案内記でもあったわけです。また、各地の寺社、風景、風俗などの絵が描かれた『名所図会』というようなものも次々と出版され、庶民の旅への関心が大きかったことが分かります。 

          
                    

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