第1回 フロンティア・スピリットを支えたMONOたち

ミス・キティのロング・ブランチ・サルーンの客室ランプ

その1.西部劇に登場したホテルのランプ

カンサス州ダッジ・シティ、映画『荒野の決闘』の主人公ワイアット・アープやTV西部劇の主人公『バット・マスターソン』が実際に保安官を勤めたダッジ・シティに、牧畜業者や流れ者が集まる「ロング・ブランチ・サルーン」という歴史に名を残した伝説の酒場兼ホテルがあった。
団塊の世代の人々なら忘れられないTV西部劇『ガン・スモーク』の舞台にもなった町で、これはそのドラマにも登場するロング・ブランチ・サルーンの女主人、ミス・キティの名が刻み込まれたホテルのランプである。

*このランプは、トレポ・ストアでご購入頂けます


☆ ミス・キティのロング・プランチ・サルーン
ランプには、「MISS KITTY'S LONG BRANCH SALOON DODGE CITY, KANSAS. DO NOT REMOVE FROM BEDROOMS.(ミス・キティのロング・ブランチ・サルーン、ダッジ・シティ、カンサス。寝室から持ち出さないでください)」と、注意書きがある。

表示 ミス・キティのロング・ブランチ・サルーン、カンサス州ダッジシティ。寝室から持ち出さないでください。

ミス・キティは架空の人物なので、このランプはワイアット・アープやバット・マスターソンが活躍していた当時の実物ではなく、映画の撮影用に再現して作られたものであるが、実際に当時の過酷な西部を旅した人たちにとって、このホテルの部屋に落ち着いたときベッドサイドで光っていたランプの灯は、ひと時の平和を象徴する温かい品物だったに違いない。
もっとも酒場から女を連れてこの部屋に上がった不埒な男たちも多かったかもしれない。なにしろ当時のダッジ・シティは無法地帯として悪名高い町だった。

☆ 無法者の町
1870年代のカンサス州ダッジシティは、軍隊も法も及ばぬ悪名高い無法者たちが横行する町だった。バッファロー・ハンター、鉄道建設労働者、流れ者や兵隊たちが殴りあいや喧嘩に明け暮れ、果ては銃の撃ち合いで、男たちは「ブーツを履いたまま」死んでいった。いわゆる日本語でいう『畳の上では死ねない』男たちだった。身元もわからないまま死んでいった男たちは大抵が町外れの丘の上に葬られたので、誰言うともなくそのような墓地を『ブーツ・ヒル』と呼ぶようになった。ダッジ・シティの歴史は、1865年にダッジ砦が作られたことで始まった。その目的はサンタフェ・トレイルを行く幌馬車隊の警護や南部のインディアンとの戦いに当たっている部隊の供給基地としてだった。
ダッジ・シティの町は1872年、軍隊の駐屯地の西に作られ、すぐにバッファロー・ハンターや旅人の交易所になり、1872年の9月にアチソン、トピーカ&サンタ・フェ鉄道がダッジ・シティにまで伸びたことで、町はますます賑わっていった。
ロング・ブランチ・サルーン(Long Branch Saloon)が作られたのもそんな時代で、酒場はオールド・ウエストの伝説になるほど繁盛したのである。

1874年当時のダッジシティ、表通り
1874年当時のダッジ・シティのフロントリート。 ロング・ブランチの看板が見える
(Courtesy: Ford County Historical Soc., Dodge City, KS: http://www.skyways.org/orgs/fordco/dodgecity.html)

ロング・ブランチはチョーク・ビーソン、ウィリアム・ハリスが1878年に購入し、彼らの努力でサルーンは牧畜業者たちの社交場としてダッジ・シティで最も有名になった。毎晩、チョークリー・ビーソンの率いるカウボーイ楽団が演奏をし、5セントのサイコロゲームから千ドルを越すポーカーゲームまでが行われるような娯楽場でもあった。
飲み物はミルク、紅茶、レモネードから、もちろんビールやシャンペンなどすべてのアルコール類が用意され、冬は近くの川からとってくる氷で、夏はコロラド山脈から列車で運ばれてきた氷で冷やして出すのが売りものだった。

1878年当時のロング・ブランチ・サルーンのバー   チョーク・ビーソンのカウボーイ・バンド
1878年当時のロング・フランチ・サルーンのバー                 チョーク・ビーソンのカウボーイ・バンド 
         (Courtesy: Ford County Historical Soc., Dodge City, KS: http://www.skyways.org/orgs/fordco/dodgecity.html)


ダッジ・シティとワイアット・アープ
1876年、ワイアット・アープ(Wyatt Berry Stapp Earp)が、ダッジ・シティの連邦保安官補(chief deputy marshal)に任命されてやってきた。

それまでアープは西部を放浪し、駅馬車の御者、鉄道建設労働者、バッファローハンターや測量の仕事に携わったり、開拓民というよりは流れ者に近かった。
アープは6フィートを越す大男で、ポーカーの名手で早撃ちの名人だったが、コーヒーより強い飲み物は一切飲まなかったという。月給は250ドル、一人逮捕するごとに2ドル50セントが支払われた。アープはバット・マスターソン(William Barclay Masterson)を彼の保安官助手に雇っている。バット・マスターソンも18才でダッジ・シティに来る以前は、鉄道建設の仕事やバッファローハンター、軍隊の斥候などをしていたが、23歳でダッジ・シティの保安官助手になると、いつも最新流行のスーツを着込み、パールグレイの山高帽子を被り、ダイヤモンドのネクタイピンを付けて、西部一の洒落男と呼ばれるようになった。彼がステッキを持ち歩くダンディな姿はりは、テレビドラマなどでもお馴染みである。
1877年、バット・マスターソンは郡民に選ばれて郡保安官(county sheriff)の職についたが翌年は再選されず、勇名を馳せた割には保安官としての生活は3年間にすぎない。
ワイアット・アープは一時職を辞して他州に行っていたが、その間連邦保安官補を務めていたバット・マスターソンの兄エド(Edward J.)が、Lone Star Dance Hallの打ち合いで怪我をしその後亡くなったこともあって、アープは連邦保安官(marshal)として復帰した。



1883年、ダッジ・シティの平和を守った男たち
前列左から2番目、Wyatt S.Earp,後列右から2人目、W.B.Bat Masterson
(Courtesy: Ford County Historical Soc., Dodge City, KS:http:/://www.skyways.org/orgs/fordco/)

  
☆ 実録OKコーラルの決闘

1879年、ワイアット・アープはカンサスからアリゾナ州に行き、そこでツームストーンの町の保安官補(deputy sheriff)の任につくように頼まれる。
ツームストーンは、銀鉱が発見されて以来多くのならず者たちが集まり、今や西部のフロンティアでもっとも手に負えない町になっていた。任命されていた郡保安官(sheriff)も、法を施行するよりも報酬が目当てと思われた。馬泥棒や駅馬車強盗、殺人などが増加し、これらの事件の多くはチャールストン近郊に牧場をもつクラントン兄弟が関与していると噂されていた。ツームストーンの東、サルファー・スプリングス・バレーにある彼らの友人のフランクとトム・マックローリー兄弟の牧場が無法者たちのたまり場になっていた。クラントン兄弟の一人がツームストーンの刑務所から簡単に逃げ出したのも、保安官が共犯なのではないかと疑われるほどだった。

ワイアット・アープは保安官補だけでなく、アメリカ連邦保安官補(deputy United States marshal)としてのバッジをもつ警察官の職も続けており、それに加えてウエルス・ファーゴ運送会社の警護もしていた。それからツームストーン第一の賭博場「オリエンタル」の警備も頼まれ、商売の邪魔をする無法者たちを取り締まった。そのため彼には賭博場の利益の4分の1が入り、時には一週間で何千ドルもの収入になった。

ワイアット・アープは連邦保安官として、また関与している運送会社が被害を受けたもあってこのクラントン兄弟と対立することになる。市民安全委員会はツームストーンからクラントン一味を追い出すことを決め、役に立たない警察署長(town marshal)を辞めさせてヴァージル・アープを代わりに据え、ワイアットとモーガン・アープ、そしてジョン・H.(Doc)ホリデイを保安官助手にした。

アイク・クラントンはツームストーンのアレンストリートをうろつき、酒場でワイアット・アープとドク・ホリデイを殺してやるとうそぶいた。
フリーモントとアレンストリートの間の4番ストリートで、モーガンとヴァージル・アープはアイクの後ろから近づき、アイクが振り向いて彼のウインチェスター銃に手を伸ばすより早く、ヴァージルは左手で彼を制し、右手で自慢のコルトを掴みアイクの頭を殴りつけた。
アープ兄弟はクラントンを裁判所につれていき、平和を乱した罰として25ドルの罰金を課し、町から追い出した。
一方、裁判所の外では、ワイアット・アープがトム・マックローリーと言葉を交わすと、マックローリーが銃に手を伸ばす前に顔面に平手打ちを食らわし、ピストルで頭を殴りつけ彼を溝に叩きのめした。

これにも懲りず、アイク・クラントンとトム・マックローリーは何軒かの酒場で、アープ兄弟をこの町から追い出してやると脅しを繰り返し、それから自分たちの馬を置いてあるOKコーラルへ戻って行った。アイクは、ワイアットたちにOKコラールで決闘をしようと申し入れ、翌日トム・マックローリーの他に、ウイリアム・クラントン、フランク・マックローリー、ビリー・クレイボーン等が、アープ兄弟とホリデイを待ち受けていた。
アープ兄弟とホリデイの4人も、OKコラールへ向かった。警察署長のヴァージルは、保安官にトラブルメーカーたちを逮捕するので一緒に来てほしいと頼んだが、彼はこれを断った。
連邦保安官と彼の保安官助手たちは目的地の馬の囲い場に着くと、無法者たちに降参するように言った。
そのとき、クラントン一味は銃を手に取り発砲した。硝煙がおさまったとき、ビリー・クラントンとマックローリー兄弟は死んでいた。ヴァージルとモーガンも傷を負ったが重傷ではなかった。ホリデイはかすり傷を負っただけだった。
                 (by 「Tombstone Epitaph」October27,November1,1881)


この事件が有名な『荒野の決闘』や『OK牧場の決闘』などの映画に取り上げられたが、単純な善悪の決闘というわけでもなかった。当時の新聞で記述されているように、ツームストーン生え抜きの保安官と新任保安官のワイアットたちアープ兄弟の確執や、定住者とよそ者との対立など複雑な要素が絡み合っていて、映画のようにスカッとはいかなかったようである。

ツーム・ストーンにもブーツ・ヒルと呼ばれる墓地が丘の上にある


ダッジシティのブーツヒル共同墓地
ダッジシティ郊外のブーツヒル墓地
(Boot Hill Museum:Courtesy byFord County Historical Soc., Dodge City, KS:http:www.skyways.org/orgs/fordco/)

ワイアット・アープはこのあと三度目の妻とともにサンディエゴやアラスカに移り、不動産に投資してホテルや酒場、賭博場などを所有したり貸したりするなど転々としながら、最後はロス・アンジェルスに居を構えた。ここでもモハベ砂漠の鉱山に投資したりしながら、初期のハリウッドの俳優たちと交友関係をもった。彼が映画の主人公になったのも、そんなことが関係しているのだろう。
ワイアットはこの地で、1929年の1月13日に80歳の生涯を閉じた。西部の開拓時代を奇跡のように生き抜いた。波乱に満ちた、そして幸せな人生だったに違いない。


☆ダッジ・シティのその後
1874年、冬の寒さに強い小麦の「ターキー・レッド」という種が紹介されると、多くの牧草地に作物が作られるようになり、カンサス州の牛の生産業者も農園経営者に変わっていった。そして町が大きくなるにつれ、ワイルド・ウエストも段々と消えていった。
1880年までにはブーツ・ヒルもなくなり、1882年に軍隊の駐屯地も閉鎖された。ダッジ砦は1889年からカンサス州兵の宿泊所になっている。
1885年までには、TV映画『ローハイド』でおなじみだったキャトル・ドライブも行われなくなったが、ダッジ・シティの名は西部開拓史の中で忘れられない町になった。


何千頭もの牛を追う、キャトルドライブ
キャトル・ドライブ   何千頭もの牛を追うカウボーイたち


現在、ダッジ・シティにあるブーツ・ヒル・ミュージアムに当時の様子が再現され、かつての歴史の一部を体験することができる。
表通りにあった建物は1885年の火事で焼けてしまい、現在の建物の正面は最初の建物の写真を参考に、造りなおしたものである。
かつてのロング・ブランチでは、チョークリー・ビーソン楽団の演奏が呼び物だったが、現在でも夏の間、ロング・ブランチ・サルーンの舞台では、「チョーク・ビーソンとミス・キティ」のショーが行われている。
ミス・キティは、アメリカで20年以上に亘り放映されてきたTV西部劇『ガン・スモーク』の主要人物として人気が出て、今では実在した人物のように思われているが、当時のダッジ・シティで活躍したの芸人ドラ・ハンドをモデルにキャラクターを設定し、ドラの生活を物語にしたということである。

観光用に再現されたダッジシティの表通り観光客で賑わう、ロング・ブランチ・サルーン
 ブーツ・ヒル・ミュージアムに再現されたダッジ・シティのフロント・ストリートとロング・ブランチ・サルーン
(Boot Hill Museum:Courtesy byFord County Historical Soc., Dodge City, KS:http:www.skyways.org/orgs/fordco/)

☆ 現代に通じるフロンティア・スピリットとは
アメリカの西部開拓史は、現代ではアメリカへ移住した白人が先住民の生活や文化を迫害した歴史としても語られるようになったが、当時のアメリカ大陸は確かに未開の地も多くあったのだから、何とかもう少しうまく開拓のしようがなかったものだろうかと、歴史を振り返ればそう思う。
最初にアメリカ大陸で先住民と遭遇した白人たちは、互いに決して戦闘的ではなかった。毛皮や道具を交換し合い助け合う友達として知り合ったのだから。

人間が前に進もうとするフロンティア・スピリットは誰にも止められない。しかし、それが人類の進歩にも繋がる一方、調和と協調がなければ征服と破壊になる。白人の開拓者たちが西を目指し、来年の春を信じて道を進み、土地を開墾していった行為そのものは、決して侵略でも迫害でもなかったはずである。『大草原の小さな家』のインガルス一家を見ても、人間としての知恵と努力と愛情に溢れた開拓民たちの行為は、称えられこそすれ非難されるべきものではなかった。

個人としての人間と、組織、民族、国家としての人間が違う様相を見せてしまう悲劇を、我々は今も経験している。人間がいかに個としての心を確かに、強く、豊かにもつ必要があるかということを、つくづくと感じる。
フロンティアの歴史から学ぶことも、個人の人間としての強さである。それは決して腕力の強さではない。どんな逆境にも負けない強靭な精神、積み重ねた経験からの知恵、人を思いやる何よりも深い愛情、家族や仲間を楽しませるユーモア、それこそが現代でも通用するフロンティア・スピリットだろう。

参考資料:『Frontier Justice』by Wayne Gard,1949 the University of Oklahoma Press

Ford County Historical Society, Dodge City, KS : www.skyways.org/orgs/fordco/


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